1969年、前田源吾によって創業された愛東運輸は、 世の中・時代の流れに合わせ変化を繰り返してきました。
“日本の陸上輸送を必ず発展させる”
愛東運輸には創業者の想いが、今も脈々と受け継がれています。これからも留まることなく成長と発展を続けていきます。
Since1969
Aitoh unyu history
愛東運輸のあゆみ
1969年、前田源吾によって創業された愛東運輸は、 世の中・時代の流れに合わせ変化を繰り返してきました。
“日本の陸上輸送を必ず発展させる”
愛東運輸には創業者の想いが、今も脈々と受け継がれています。これからも留まることなく成長と発展を続けていきます。
Since1969
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前田源吾は、1912年(明治45年)に愛知県碧海群富士松村、現在の愛知県刈谷市東境町に、前田家の次男として生まれた。
母は源吾が2歳の年、妹のかなゑを生んだ直後患った腸チフスのため亡くなった。2歳の源吾にとっては、あまりにも早すぎる死だった。
源吾の家はもともと百姓であり、父が大変厳格な人柄だったこともあって、8歳のころから大八車の先頭を引き、(当時は牛に引かせることが多かった)夏になれば、大変に熱い日中であっても、田の草取りをした。雪の朝も、雨の日も、ひたすら仕事をつづけた。
のちに源吾は、幼少時代を振り返り、祖母が背中を撫でてくれた以外は、人の愛情を感じたことはなかったと語る。幼い源吾も厳しい労働に従事しなければならないほど、輸送の確保が困難な時代だった。
17歳の時の前田源吾
そんな折、父:曙次郎が「これからの運送は自動車」という考えに至り、貨物営業許可を取得。1年後の昭和3年、源吾が16歳の年にシボレーの新型トラックを1台購入した。このトラックは愛東運輸の原点となり、復元された車体が、愛知県の中部トラック総合研修センターに展示されている。
父子の夢だったトラック輸送がいよいよ始動し、同時に源吾はこれを天職として、生涯にわたってトラック輸送に関わることとなる。
米俵を積んだ大八車
輸送業を開始し、兄とともに過酷ながらも充実した毎日を送っていた。しかしながら、戦争の影は源吾のもとにも着々と迫っていた。
昭和7年、当時は国民の義務であった徴兵の通達が源吾のもとにも届いた。幼いころからの百姓仕事や、トラックで鍛えた源吾は、同世代でもトップレベルの身体能力があった。
しかし、服役中に猩紅熱(伝染病の一種)にかかり、生死の間を彷徨った。昭和10年に現役を免除、予備役とされ、地元にて静養することとなった。源吾の人生観も大きく変わり、生から死へと人生の目標が切り替わった瞬間であった。
2年後の昭和12年、中国において盧溝橋事件が勃発。日本は中国との戦争状態に入った。時を同じくして、源吾のもとにも再び召集令状が届く。
トラック輸送で培った自動車への知見を買われ、飛行隊の自動車班長として実務を指揮し、戦地である中国にも赴いた。死を覚悟した場面は何度もあったが、辛酸に耐え抜き、凱旋した。
しかし、日本の戦況は刻々と悪化していく。源吾のいた愛知県名古屋はもとより、国内の主要都市は空襲によって焼け野原と化していった。
そして、昭和20年8月6日に広島、9日に長崎へ原爆が投下され、多数の犠牲者を出した。これを機に日本は全面降伏を受け入れ、長年続いた戦争はようやく終わりを迎えることになる。昭和20年8月15日、前田源吾33歳の時であった。
戦時中の前田源吾
終戦を迎えた日本はまさに敗戦国、資材も人も圧倒的に足りない状態であった。それでも、国の復興は輸送から、と息つく間もなく源吾は仕事に励んだ。大戦中、生から死に目標を切り替えながらも生き残った源吾は、残りの人生、その命の全身全霊をかけて、日本の復興に貢献することを決意していた。
戦後、日本におけるいくつかの経済危機に直面しながらも、源吾は1942年(昭和17年)に愛知陸運へ入社以来、日本の陸運業界の発展の為、献身的な功績を残した。
同時に、社内では大株主から見放され、潰せとも言われた愛知陸運を、高度成長の波に乗せ、5年間で約5倍もの成長を実現させた。この間、取締役営業部長、常務、専務を経て昭和39年には社長に就任した。
その最中、出光興産から燃料の輸送依頼を受け、昭和44年、別会社として発足させたのが、現在の愛東運輸なのである。
しかし、昭和47年には再び愛知陸運の経営が悪化。本格的な立て直しのため、当時のトヨタ自工の資本を受け入れるとともに、前田自身は愛知陸運を辞職、長年勤めた会社を去ることとなった。
愛知陸運を辞した源吾であったが、その後も愛東運輸の社長として陣頭指揮を執りながら、昭和48年には「藍綬褒章」を受賞、昭和51年全日本トラック協会副会長に就任、同年愛知県トラック協会会長に就任など、業界の発展のため、献身的に活動をしている。
平成10年からは愛知陸運時代の腹心だった澤田健治氏に社長をまかせ、軸足を業界発展のための動きに置いていた。昭和59年には「勲三等瑞宝章」を受勲、平成3年第38回交通文化賞を受賞した。
また、源吾の悲願の一つに「トラック業界の教育制度」の充実があった。
―トラック運転手に車両の運転操作や安全知識の教育、物流プロとしての人材育成を行い、業界を地位を向上させたい― 人生を物流にかけてきた源吾だからこそ、思い描いた未来であった。
実際に、これらの教育を実現する施設として「中部トラック総合研修センター」の設立に力を注ぎ、初代理事長として貢献した。この時、源吾は実に80歳であった。
こうした業界への活動は晩年まで続き、平成18年8月13日、94歳で逝去した。こうした源吾の思想は、現在の愛東運輸を形作る、まさに基礎となっている。
明治45年1月2日 | 愛知県に生まれる |
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大正15年3月 | 富士松村(現刈谷市)第二尋常高等小学校卒業 |
昭和 3年5月 | 貨物自動車運送事業(自営)に従事 |
昭和11年 | 小西組運輸株式会社常務 |
昭和17年 | 愛知陸運株式会社入社 |
昭和21年 | 同取締役営業部長 |
昭和39年 | 同取締役常務・専務を経て、社長就任 |
昭和44年 | 愛東運輸株式会社創立 |
昭和47年 | 愛知陸運株式会社、社長を辞任 |
昭和48年 | 藍綬褒賞 受賞 |
昭和51年 | 社団法人全日本トラック協会、副会長に就任 |
昭和51年 | 社団法人愛知県トラック協会、会長に就任 |
昭和59年 | 勲三等瑞宝章 叙勲 |
平成 3年 | 第38回 交通文化賞 受賞 |
平成 4年 | 中部トラック総合研修センター 理事長就任 |
平成 6年 | 社団法人愛知県トラック協会・名誉会長に就任。 |
平成18年 | 8月13日 94歳で逝去 |
大学を卒業した村山明子(現会長)は4年間専門学部で学んだ経験を活かし、その分野で仕事をしたいと考えていた。しかし、その当時東京では大卒の女性を雇ってくれる企業はほとんどなかった。そこで、明子は実家のある愛知県に帰省し就職活動をすることになった。
母の勧めや、幼いころからの習い事の縁から、「大興運輸」の専務の方にお願いし、大興運輸に入社することになる。
入社後、経理部の電算室プログラマーとして仕事が始まった。とはいえ、女性は結婚することが当たり前と考えられていた時代だったため、永年勤める覚悟もなく、良い結婚相手があれば、退社しようと考えながらの勤めではあった
わずか1年8ヶ月という短い期間ではあったが、この間明子は社員として、働く側の立場に立ったことで、社員の給与や働く環境の格差は、“働く意欲”に直結することを学ぶことできた。現在に繋がる、非常に有意義な経験であった。
大学卒業当時の村山明子
そんなある日、明子の父が「お見合いをしろ! 売れ残っても家には置いたらんぞ」と、檄を飛ばした。明子もそろそろと思っていた矢先のことで、タイミングも良かったこともあり、結婚する決意をした。
とはいえ、子供の頃から結婚後も仕事はするものと思っていたので、跡取り息子と結婚し、商売をしようと考えていた。お見合いは1月から3月までの間に7回も行い、そして、その最後の7回目に出会ったのが、前田源吾の次男であり、主人となる前田賢治だった。
骨があり、誠実で優しい賢治に好感を頂いた明子は、二人きりで話をする場を作った。だが、賢治から出た言葉は明子を驚愕させた。
「自分は、原因が分からない病を患っている。だから、これまで結婚するつもりはなかった」
前田賢治氏
賢治は話を続けた。そして、過去、東大病院に半年も入院し、原因究明をしたこともあったが、それでも病名がわからなかったこと、病院の屋上で星空を見ながら、途方に暮れとても辛い思いをしたこともあったことなど、少しずつ、自らの胸中を明かしていった。
右手が思うように動かず、麻雀をしていても牌を落としたり、吸っていた煙草を落としてしまう事、そんな状況の中でどうやって仕事や生活をしてきたのか、全て誠実に話してくれた。
そんな誠実な賢治に明子は「ここまで聞いて引く訳にはいかない、この人と一緒になる」と決意をした。
全てを話し終わった後、賢治は改めて「こんな私だが、お付き合いをさせて頂きたい」とプロボーズした。明子もその言葉を受け止め、結婚となった。
賢治29歳、明子24歳の時であった。
昭和52年当時の前田フアミリー
賢治と結婚した明子は、愛東運輸へ入社し、夫である賢治の補佐として経理事務を行っていた。
しかし、夫が昭和52年夏頸椎腫瘍で入院。一度回復はしたものの、昭和60年9月に2回目の手術を受け再度入院。その後寝たきりとなった夫の闘病生活の介護をしながら、会社では夫に代わって経理部長という重職についていた。
家庭(子育て)と仕事の両輪、そして夫の看病と毎日毎日が無我夢中の日々だった。一度も弱音を吐くことなく病と戦い続けた夫との闘病生活は、周囲に助けられながら、平成2年10月まで入院1年半、自宅看護3年半と5年に及んだ。
夫の看病を続けながらも、重責をこなしていた明子、そして愛東運輸に次の試練が迫っていた。きっかけは、社員からの一言だった。
「このままでは、会社が潰れます――。」
当時の愛東運輸は、タンクローリーが事業の柱であった。しかし、二度にわたり日本を襲ったオイルショックの影響などもあり、売上は次第に落ち込んでいった。
当時、外部から来た後継社長も、この状況に手を子招いている状況だった。
「1日も早く、新たな柱となる事業を作らねばならない。」
そう強く感じた明子は、自動車部品輸送を行う第2営業部を創設。経理部と兼任する形で部長となった。
社内からは大きな反発もあった。だが、「創業者 前田源吾の努力を、想いを、そしてそれが詰まったこの会社を、ここで断ち切ってはならない」最後まで口にしていた夫のこの願いを引き継いでいく、それが自分の使命なのだと受け止め、明子は強い決意と熱意を持って業務運営に向かっていった。
平成7年当時の
村山明子(現会長)
熱い信念を燃やしていた。 現状を打破し前進する以外方法はないと決意はしたものの、明子自身が乗務員の経験が無い為、誰かを乗務員の責任者として抜擢しなければならなかった。
日頃乗務員との会話が少なかった明子ではあったが、第二営業部数名の乗務員の中から「この人かな?」と思われる人に目星をつけて、病床の夫に相談してみたところ夫の答えはYESであった。
確信した明子は、この人に自分の経営理念、目標、憶いを打ち明けてみようと決心した。その人物こそが、現在の常務取締役である、浜島崟欣(たかよし)であった。
当時の浜島常務
今日まで一匹狼で約15年間ヤミトラまで経験して来た浜島から見て、トラックのことも知らない経営サイドの明子は、入社当時から必要なこと以外は話した事もなく、正直好感もあまり持っていなかった。
しかしその真剣な明子の話を聞いて、浜島の心は動いた。
「俺みたいな男に、なんでこんな重大な話をしてくれたのか・・・? 」
そして入社1年程度の自分の話も真剣に聞いてくれたことに感動した浜島は、その明子の期待に応える、そして「この人を俺は絶対この会社の社長にするんだ」と硬く心に誓った。
ここからが第二営業部の本格的なスタートとなり、明子との二人三脚が始まったのである。
こうして第二営業部は、強力な腹心を得て本格的なスタートを切った。先のことより今日を精一杯頑張るしかない中、多くの幸運に恵まれ順調に成長し、平成6年には車両総数46台の内27台が一般貨物車両となり、タンクローリーを凌いだ。
平成13年には45台となり、その後、前田源吾が他界する平成18年までの間、車両台数は68台となりタンクローリーは2台のみとなっていた。
平成19年10月、明子が社長に就任。浜島の長年の夢が実現した瞬間だった。
ここまでの道のりの中、参謀であった浜島は「何度か過労死を覚悟した」と当時を振り返っている。
社長就任後、まず初めに新規事業として倉庫業を考えていた明子は、経営革新の認定事業所の資格を得るため、経営診断士の先生の指導のもと、UFJ銀行の行員、歯科医、トヨタの社員など7~8名のチームで約半年近くの時間を費やし、経営計画書を作成。さらなる飛躍に向け、着々と準備を進めていた。
しかし、翌平成20年9月、「リーマンショック」が発生。全世界を巻き込んだ恐慌により経済は荒れに荒れ、本業である実運送の売上が激減してしまった。倉庫事業の計画は見直し、必死に作り上げた経営計画書も実行のタイミングを逸し、棚上げとなってしまった。
この時期、世間では事業縮小、人員カットと同業他社でも、まさかの時に備えて非正規社員を登用する会社が多くなっていた。
こんな激動の最中、明子は、“リーマンショックを新たな変化点”と捉えていた。
まず最初に同2008年12月に当時専務取締役であった村山記生(現社長)を静岡県富士宮市にある管理者養成学校「13日間 地獄の特訓」に参加させた。
無事卒業を果たした記生の大変身ぶりを見て、全社員に落とし込みを計りたいと考えた明子は、翌2009年、地獄の出張特別訓練を管理者養成学校の講師を招き、岡崎市にある桑谷山荘で2月、5月、8月の3回に分け実施。厳しい訓練だった為、数人の脱落はあったものの、無事、終了することができた。
さらにこの年の9月、記生に続けとばかりに神谷博之(係長)が「13日間地獄の特訓」に参加し見事に変身を遂げた。
明子と倫理との出会いは平成15年から始まり、平成17年頃からは会社内部へ少しずつ浸透させていた。
しかし本格導入のきっかけは、平成21年3月に豊田市南倫理法人会の会長に就任したことだった。
会社への倫理導入の機運も高まり「活力朝礼」を次なる手段として、リーダー以上の管理職を中心に実施。平成22年5月には愛知県倫理法人会主催の「活力朝礼発表会」に出場、翌6月には豊田スタジアムで豊田市中央、北、南の3法人会合同企画の「夢の2010人モーニングセミナー」が開催され、集客2157人の動員で目標も見事達成。
そこで行われた「活力朝礼発表」で舞台では当社リーダー以上の管理職と、会場では社員が全員起立して行われ、その迫力に多くの参加者から大好評を得た。
これをきっかけに社内では各チーム単位でも活発に行われるようになり、現在では出発点呼者による24時間体制の「職場の教養」を使った全員朝礼が実施されている。
さらにきめ細かな倫理を学ぶため、サブリーダー以上の管理職は静岡県御殿場市にある倫理研究所「富士教育センター」で実施されている「幹部社員倫理セミナー」へ全員参加することとなった。
平成17年倫理経営の導入、平成21年管理者養成学校の行動力訓練、そして「致知」社内木鶏会の導入と、弊社の社員教育はリーマンショックを機に、これを新たな変化点と捉え力を注いだ。
明子と「致知」との出逢いは、平成19年3月豊田市倫理法人会設立1周年記念講演で、講師にお招きしたイエローハット創業者、鍵山秀三郎氏からのご紹介が最初のきっかけだった。
平成20年3月豊田市倫理法人会設立2周年記念講演には「致知出版社」の紹介で、大峯千日回峰を満行された、塩沼亮潤氏を講師としてお迎えし講演会が開かれた。同年7月は300人特別モーニングセミナーの講師として、致知出版の藤尾秀昭社長を講師に迎え更に深いご縁となった。
この段階で「致知」木鶏会の良さを十分に理解していた明子は、何とか社内に落とし込みたいとして、平成21年5月管理者養成学校の行動力訓練導入と並行しながら、まずは管理職とリーダー以上の乗務員約10名を交えて始めた。
これが奏功し、翌年5月には全社展開となり、会社からは毎月社員一人ひとりに「致知」一冊ずつが手渡されている。今では社員も毎月の「致知」を楽しみにするようになり、「木鶏会」はチーム単位でも必ず月一回は行っている。
平成24年9月には「第3回社内木鶏全国大会in福岡」に全国720社の中から5社ノミネートされ、東海北陸代表として出場し「感動賞」を頂くことができた。「致知」木鶏会は愛東社員にとって人間力向上には欠かすことが出来ない月刊誌となっている。
2013年、さらに盤石な経営基盤を作り、お客様からの要望にも、よりタイムリーに応えるべく、新サービス「スポットQQ便」を開始した。
急なご依頼や、少量輸送にも迅速に対応できる体制を構築し、さらなるサービスの向上を実現している。
また、2015年には現在の加工事業の先駆けとして「内職市場東海市富木島店」をオープン。
その後、同敷地内に自動車部品加工を担う、富木島加工所を設立した。
続いて岡崎加工所、一里山加工所と順次拡大を続け、現在では運送事業に続く、新たな事業の柱となりつつある。
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